いつの自分も紛れもない自分自身だ【27歳の若造が考える「生き方」に対する示唆】

本当に直近、日本周辺で3つの台風が突如発生した。巷では、「ジェットストリームアタック」というらしい。

「ジェットストリームアタック」と言われて、聖闘士星矢ではなく、ビリヤードが思い浮かぶのは日常的に「東大卒たっくんと黒子のビリヤードch」を閲覧しすぎているせいかもしれない。

※ 一応リンクはこちら(https://www.youtube.com/channel/UC-Kad6i1b8vpTOZ5OMe973Q

毎日暑すぎる日差しを浴びているせいか、社会人になって以来の大型連休で考える時間が多いせいか、はたまた身内が直近亡くなってしまったからかは不明だが、ちょっと結論のない「生き方」の話をしようと思う。

後から見返すと長くなってしまったので、構成を以下に整理しておくため、興味あるところだけでもお読みいただけますと。。幸いであります。。

  • 1・2:これまでの振り返り
  • 3・4:ちょっと一般的な話題
  • 5:終わりに

なんでかは分からないけど、コンサルに入社した

22歳まで、ずっと自分は教育業界かNPO業界で生きていくものだと思っていた。

4年弱は個別指導塾で講師をやっていたし、家庭教師も1年強やっていた。

今はすっかり大きくなった教育系NPO(※名前を出していいのかよく分からないから内緒)で非常勤職員を含めて4年間、割とがっつりボランティア活動(≒業務)していたし、何なら英語の教員免許まで取得した。

思い出すと、大学時代の友人や彼女と遊んでいる最中、突然パソコンを開いて業務をやり出すことがあったのは、本当に良くなかった。心の底からリモート謝罪したいところである。

「だからこそ」なのかは分からないが、自分は「教育者」としての素養が60点くらいしかないのを自負していたし、努力して80点になることはあっても、きっと才能にあふれる教員以上の価値は提供できないと、潜在的に分かっていたのかもしれない。

①教育業界に将来的に貢献できるスキルセットと、②「人生は金じゃねえんだよ」と豪語できる経験、の2つを積むことを目標に就職活動して、80社くらいの沢山の企業から祈っていただいて、今の会社に拾ってもらう形になった。今思えば、教育実習中で最終面接を断ったにも関わらず、skypeで最終面接をしてもらったことは、当時の情勢から考えると「レア」だったなと思う。

大手日系企業の最終面接を断って家族に激怒されながらも、「どうせ合わなくて辞めるから意味ないわ」と生意気な口をきいて、今の会社に入社した。

あれ、普通に人生「金」なんじゃねと悟り始める

入社してから6年目を迎えるが、本当にガッツリとクライアントと向き合わせてもらった。

色々学ばせてもらうことはあったが、そこで感じたことの1つに、「大きな仕事にはお金がかかる」ということだ。誤解なきように補足すると、一般的にいう「社会的に出している価値の対価がお金である」ということと同義ではない。

NPO等、ビジネスモデル上、中々お金には繋がらないけど、社会的には意義の大きなことをなしているところはたくさんある。でも、やはり大きな仕事をするのにはカネがかかるのだ。これはもう真理。

入社前には「人生は金じゃねえんだよと豪語できる経験」をして、すぱっと会社を辞めて、起業なり小さな生業を作るつもりが、 あろうことか真逆な経験を積んでしまったのが今なのである。

※ 正直これに関しては全然意見が固まらないところ。

正義の反対は「悪」ではなく、「もう一つの正義」

最近、会社選択や採用のやり方が変わってきたと言われる。

これまでは「入社した会社でスキルアップ」していくものであったが、これからは「会社が求める人材像にマッチしたところを転々とする」形、いわゆる諸外国と同様のジョブ型に変わるというものだ。その意味合いで、適正な転職回数が4回とかって話も聞いたことがある、めちゃくちゃ多いな。。

変化の激しい社会において10年後の予想も困難である中で、逆算的なキャリア選択が難しい背景もあるだろうし、少子高齢化に伴って労働力が根本的に不足している側面もあるだろう。ただ少なくとも、自分が就職活動をしていたときに、そういう考え方で職業選択をしていた人はほとんどいなかったように思う。

上記は一例で、今の主流な価値観が数年後に塗り替えられてしまうことは、よくある。

自分だって入社した頃は「綺麗な紙(アウトプット)はお客さんのために考える仕事の中で身につくでしょう」といって、新卒受講必須の研修をぶっちしたこともあるし、前述のお金への考え方についてもそうだ。

ただ、個人的にはどちらも正しい気がしているのだ。

「正義の反対は悪ではなく、もう一つの正義」という言葉は本当に言い得て妙で、「興味ある仕事をとりあえずやる」キャリア選択も、「緻密に計画して行う」キャリア選択も、きっとどちらも正解であり、正義なのだ。

だし巻き卵を大根おろし+醤油で食べるか、そのまま食べるかと同じくらい、どちらも正しいやんけと思うのだ。

だから、元カレ/元カノが別れる前と全然違うことを今は言っていたり、仲の良かった家族や友達と話が合わなくなっていたりしても、許してあげてほしいところ。(そういう話かいって自分で書いてて突っ込んだが)

それくらい、人生や生き方というのは「自由」であり、自由でありすぎるがゆえに「不自由」なのだ。

法学を学ぶときに、「社会のルールを知っていればルールに定められている以外のことは自由であるから法律は学ぶ意義がある」と誰かに言われた記憶がある。まさにその通りで、人は多少の制約がある方が意思決定しやすい。

生き方を定義することが求められる社会

昨今は、色々な情報がインターネット等を介して否が応でも入ってくる。
「市場価値の高い人材になりましょう」
「家族や一生付き合う友達を大切にしましょう」
「結婚や出産は30歳までが理想的です」
「好きなことを仕事にすることが幸せ」「いいや違います、向いていることを仕事にする方が最適」

そして、その次には必ず聞かれる。

「で、あなたはどうするつもりなの?」

本来、自由であるはずの生き方に対して、多くの風潮・価値観という外的圧力が制約をもたらしている。だって、そっちの方が誰しも簡単に意思決定できるし、意思決定してもらわないと困るから。

だけど、そういうことに生きづらさを感じている人には「そんなことないよ、もっと自由なものだよ」と個人的には言いたい。何より固定観念に縛られてしまいがちな自分自身に向けても。

終わりに

22歳までの自分は、教育業界で独立するんだと思っていたし、27歳の今は会社員の安定もいいなと思っている。

でもきっと、その2つ以外にも自分の価値観や求める生き方にフィットする「第3の道」があるんじゃないかなと信じている。

だって、生き方は元来「自由」なものなのだから。

凄い長文になってしまい申し訳なさしかないですが、個人の備忘という位置づけとしてご容赦くださいませ。。